智雲院
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智雲院(ちうんいん、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性で、豊臣秀長の正室。
生涯
[編集]智雲院は豊臣秀長の正室だが、出自ははっきりしない[1]。
天正13年(1585年)9月に、秀長の「女中」が郡山に来たと『多聞院日記』にあり、これが秀長の正室、または側室であるとみられる[1]。文禄3年(1594年)3月に豊臣秀次が郡山城を訪れた際の『駒井日記』の記事に「ちうんいん様」「大かた様」とあり、秀長の正室を指すと考えられる[1]。『森家先代実録』にも、秀長の養女である智勝院の養母(秀長の正室)の法名として「智雲院」と記される[1]。
慶長10年(1605年)頃、秀長の後室が大和国添上郡内の4村、合計2,000石を知行していたことが記録に残っており、智雲院は徳川幕府から知行を与えられていた[1]。元和年間(1615 - 1624年)にはこれらの村が天領等になっていることから、それまでの間に智雲院は没したものと考えられる[1]。
秀長の子女としておきく、大善院の名が知られるが、智雲院がその母かどうかは不明[2]。おきくと大善院は同一人物ともみられ、その生母は秀長の側室の興俊尼(光秀尼)ともされる[3][2]。
登場作品
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 川口素生「豊臣秀長関係人名事典」新人物往来社 編『豊臣秀長のすべて』新人物往来社、1996年。ISBN 4-404-02334-0。
- 瀧喜義「秀長は誰の子か」新人物往来社 編『豊臣秀長のすべて』新人物往来社、1996年。ISBN 4-404-02334-0。