食卓 (クルアーン)

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Al-Ma'ida
المائدة
啓示 Madinan
章題の意味 The Table Spread with Food
詳細
スーラ 5
アーヤ 120
ジュズウ 6 to 7
ヒズブ 11 to 13
ルクー 16
サジダ節 none
前スーラ 婦人
次スーラ 家畜
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食卓』とは、クルアーンにおける第5番目の章(スーラ)。120の節(アーヤ)から成る[1]

第90節には、酒や博打、偶像と賭け矢について、「卑しい悪魔の行為」と書いてあるという解釈がある[2][3]

脚注・出典

内容


1.あなた方信仰する者たちよ、約束を守りなさい。あなた方の内、今から読み上げるような者を除いたアッラーの家畜となる者は許される。ただし、あなた方が実際に巡礼として示される苦難にある間は、従順であることよりも、あなた方が出来る限りの努力をしなくてはならない。これは、アッラーがどのような者たちが御自身のしもべであるのかを定められたものである。

2.信仰する者よ、あなたの思考や行動によってアッラーの印を冒涜してはならない。イブラーヒームの信仰に習い、自らを捧げものとなし、それをあなた自身の誇りとしなさい。また、主の恩恵とお喜びを求めて、同じ信仰に入るものに、自分の信仰の形を押し付けてはならない。しかし、《常にこのようにしなさい》と語るわけではない。肉としての自分に帰り、自己の道や仕事に励むことも正しいことである。あなた方は、仕事を追われ、また、あなたを追及する声に追われることもあるであろう。しかし、このような者たちに恨みを持ち、その恨みに引きずられてはならない。むしろ、正義と篤信にための助けと思い、それによって信仰を深めなさい。罪と恨みによって信仰を形作ってはならない。アッラーを畏れなさい。アッラーはこのようなことにより、更なる懲罰を下される。

3.アッラーがあなた方に禁止されるのは、死肉(期限が過ぎた定めを守らなくてはならないと言う教え)、血(命第一と言う教え)、豚肉(清くない教え)、アッラー以外の名を唱えたもの(啓典から外れる教え)、絞め殺されたもの(人が勝手に無視することを定める行為)、打ち殺されたもの(強要により捨て去らせる行為)、墜死したもの(あきらめる行為)、角で突かれたもの(自分の罪を他の者に押し付ける行為)、野獣が食い残したもの(現世の成功者とされる者たちの成功原理に従う行為)、しかし、あなた自身が自らの努力で成し遂げた場合は別である。また、石段に犠牲として捧げられたもの(他者をエスケープゴードとする行為)、籤で分配されたもの(多数決の原理などにより一時的に正しいとされたもの)である。これらは忌まわしいものである。不信心な者はこれらの何れかに属し、その原理により、イブラーヒームの如き純粋な信仰を打ち破ろうとする。しかし、彼らにはこれを行うだけの力は無い。だから彼らを恐れないで、アッラーを畏れなさい。ここに、アッラーはあなた方のために、イブラーヒームの如き純粋な信仰の姿を完成させ、アッラーがその者たちの上に恩恵を下される教えとしてイスラーム(平安)を指し示される。しかし、その者に罪を犯す意図がなく、正しいものが何であるのかを知らされない者(飢えに苦しむ者)には、アッラーは寛容に彼らを赦され慈悲を賜る。

4.彼らはユダヤ教、仏教、キリスト教など教えを上げて《どれが正しいのか》と、あなたに問うであろう。このように答えればよい「良いものは全て正しい。ただし、その信仰に於いて、あなた自身を正しく訓練されたアッラーの鳥獣となし、その心により悟りとするのならば、それらの、どの教えであったとしても許される。これら、全てを下されておられるのはアッラーであられる。その事を知りなさい。だからアッラーを畏れなさい。アッラーはあなた自身を速く清算されるかも知れないのだから。」

5.ここに明示しておく。どの啓典であったとしても、その啓典に書かれたままのものは全て合法であり、また、このクルアーンも彼らにとって合法である。つまり、正しく信仰を持つ生きた人々は、どの教えに所属していようとも合法であり、このクルアーンに書かれたままに信仰する人々も合法であり、過去の啓典を啓典に書かれたまま守る人々も合法である。ただし、啓典を人の解釈によりゆがめるもの(姦淫)、他の教えの定めによりその啓典を見るもの(密通)は許されない。だから、あなたがどの教えに属していたとしても、その啓典の定めに従うならば許される。信仰を拒否する者は、どのような善行も虚しく、来世に於いては失敗者の類となる。

6.信仰する者よ、あなた方が礼拝する時は、顔と両手を肘まで洗い、頭髪を整えて、両足も踝まで洗いなさい。あなたの汚れが激しいならば、全身を沐浴しなさい。もし、あなた方が病気であったり、旅路にあったり、厠から出た時であったり、人と交わった後であったりして、水に触れることが出来ない場合、見つけられない場合は、清浄な土に触れ、顔と両手を撫でなさい。アッラーは、あなた方に困難をかせることをお望みになられているのではない。あなた方を清めることをお望みなのだ。全ての困難は《あなた自身を清める》この一つゆえに定められている。だから、あなた自身が自らを清めたときに、アッラーは恩恵を賜る。だから、真の信仰を持つ者は、感謝することになるのだ。

7.アッラーはあなた方に限りない恩恵を下さる。その事を忘れずに、アッラーとの約束を果たしなさい。これが、イブラーヒームの如き純粋な信仰に入ることである。あなた方は「わたしは聴きました。従います。」と心の奥底から語りなさい。これがアッラーを畏れるということである。アッラーは、あなた方の心にいだくことを熟知されておられる。

8.正義は、このイブラーヒームの如き純粋な信仰にある。あなた方は、この正義の証人となりなさい。艱難が襲うと、それを他人ゆえと思い他の者を憎悪するようになるかも知れない。しかし、正義はただ、このイブラーヒームの如き信仰にある。このことを忘れてはならない。艱難にあって、他の者を憎悪するならば、この言葉を思い出しなさい。これが篤信に近い。アッラーを畏れなさい。アッラーはあなた方が何を行うのかも熟知されておられる。

9.イブラーヒームの如き純粋な信仰を持つ者、善い行いに励む者に、アッラーは御赦しと偉大な報酬を約束されている。

10.だが、この信仰を拒否して《そのようなものに中にアッラーの印などない》と語る者、アッラーの印を偽りとする者は火獄の住人である。

11.イブラーヒームの如き純粋な信仰を持つ者に、アッラーは恩恵を授けられる。他の者たちがその者に向かって手を出そうとしても、その信仰ゆえに、アッラーはその手を押さえられる。だから、アッラーを畏れなさい。アッラーを信頼しなさい。

12.アッラーは、以前イスラエルの子孫と約束を結ばれ、彼らの中に十二人の首長を立てられた。アッラーはこの様に仰せになられた。「わたしはあなた方とこのように契約を立てる。あなた方が礼拝の勤めを守り、定めの喜捨をし、私が遣わす使徒たちの言うことを聞き、天に財産を蓄えるならば、わたしは、あなた方の全ての罪業を消滅し、川が下を流れる楽園に入らせよう。今後、あなた方の中、これを信じない者は正しい道から迷い去る。」と。

13.しかし、彼らはこの約束を破った。自分の欲望、都合に合わせて字句の位置を代え、訓戒の一部を忘れ去ってしまった。これゆえ、アッラーは彼らの心をかたくなにされた。これゆえ、彼らの中の少数の者以外は、契約を破棄することに心の痛みを覚えない者、裏切るのが当然というものたちとなった。だが、あなた方が彼らの行為を追及することは間違っている。あなた方は彼らを許し見逃すべきである。そうしないと、あなた方が彼らの罪に引かれて彼らと同じとなるからである。アッラーは善い行いをする者をお好みになられる。

14.アッラーはまた、「わたしはキリスト教徒です。」と語る者たちとも約束を結ばれた。だが、彼らも授けられた教訓の一部を忘れてしまった。これゆえ、アッラーは復活の時まで、彼らの中に、敵意と憎悪をおくられた。つまり、彼らは表面的には善人であり、内には敵意と憎悪のかたまりとなった。アッラーは彼らに、その行ったことを間もなく後で告げ知らされるであろう。

15.この啓典を知る者たちよ。アッラーはあなた方にアッラーの使徒を遣わされた。この啓典は、過去の啓典の中にある真理の多くを解明するものであるが、まだ、多くの真理についてはそのままにしてある。これは、アッラーからの御光、明瞭な啓典である。

16.これは、アッラーが御自分の使徒を選ばれ、彼らを平安の道に導くためのものである。だから、この啓典を守るものには、アッラーは絶対の御赦しを与えられ、暗黒から光明に連れ出し、彼らを正しい道に導かれる。

17.「アッラーは、マルヤムの子マスィーフである。」と言う者たちがいる。このような者たちは、イブラーヒームの如き純粋な信仰を持たない者、不信心者の類である。もし、その通りであるならば、彼らはその信仰を持つことも捨てることも出来ないはずである。しかし、彼ら自身でもその信仰を捨て去り反対のことを語ることも簡単に出来るではないか。自分が出来ることをアッラーがお出来にならないとでも言うつもりなのか。アッラーが、マルヤムの子マスィーフとその母を滅ぼそうとお考えになられれば、それを誰が阻止できようか。天地の全ての大権をお持ちなのがアッラーであられる。

18.ユダヤ人やキリスト教徒は言う「わたしたちはアッラーの子であり、アッラーに愛でられている」と。ならば、なぜアッラーが彼らの罪を罰せられるのか。結局、人は皆、アッラーの被造物に過ぎないではないか。アッラーはお望みの者を赦し、お望みの者を罰せられる。天も地も、その間にある全てのものも、皆、アッラーの大権に属する。結局、皆、アッラーの御許に帰る。

19.あなた方、この啓典を目にする者たちよ、あなた方は「最後の使徒はすでに来た。もはや、警告する者はいない。」と語るかも知れない。しかし、あなた方の心をかたくなとしてはならない。心をかたくなとし、理解出来ないほどとなれば、アッラーは解明する者を遣わされる。だから、あなた方はかたくなとなり、「わたしたちには吉報の伝道者も警告者も来ない」と語ってはならない。今、吉報を伝え警告を与えるものが、正にあなた方のもとに来ているのである。真にアッラーは全てのことに全能であられる。

20.ムーサーは、自分の人々にこう語った。「私の人々よ。アッラーはあなた方に大いなる恩恵をお授けになられた。アッラーの預言者たちはあなた方の中より出、あなた方を王と定められた。他のどの民にも授けられなかったものを、あなた方に授けられたのである。

21.私の人々よ、アッラーがあなた方のために定められた聖地に入りなさい。あなた方は踵を返してはならない。そうしたらあなた方は失敗者となる。」

22.彼らは言った。「ムーサーよ、そこには巨大な民がいる。彼らが出て行かなければ、わたしたちはそこに入ることは出来ない。もし彼らがそこから去ったならば、入るであろう。」

23.イブラーヒームの如き純粋な信仰を持つ者、主を畏れる者とは、この巨大な民が待ち構える聖地に正面から入るようなものである。これが信仰の門であり、イブラーヒームの如き信仰は正面からそこに入ることを意味する。このような者たちは勝利を得る。だから信者であるならば、アッラーを信頼し、そこに入らなくてはならない。

24.しかし、このように命じられても実際に入ることが出来る者たちは稀である。ムーサーの民たちも、「ムーサーよ、わたしたちは彼らがそこに留まる限りそこには入れない。あなたとあなたの主が二人で行って戦ってください。わたしたちはここに座っている。」このように答えた。彼らは、実際にイブラーヒームの如き信仰を持って戦おうとはせず、救いや許しなどの栄誉だけを求めたのだ。

25.ムーサーは、このように申し上げた。「主よ、真の信仰を持つ者は、私と私の兄弟だけです。わたしをこの反逆の民から引き離してください。」

26.このように、実際にイブラーヒームの如き純粋な信仰に入らず、その主の救いや許し、また、さまざまな王権のみを求める者たちは、40年間(肉体を持ち生きている間中)地上をさまようこととなる。彼らは、迷い出た者たちであり自業自得なのだ。だから、彼らが如何なる罰を受けようとも、あなたが悲しむ必要はない。

27.アーダムの二人の子の物語も、真相はこうである。両人が犠牲を捧げたとき、一人は受け入れられ、もう一人は受け入れられなかった。受け入れられなかった方は心に、《わたしは正しいのだから受け入れられるのが当然である》と思っていたのだ。この思いが受け入れられた者への殺意とかわり、実際に受け入れられた者にこのように語った「お前を殺してやる」と。それを聞いても、受け入れられた方は「わたしはただアッラーのみを畏れる。アッラーは、唯主を畏れる者だけを受け入れられる。

28.だから、あなたがわたしを殺すために手を伸ばしたとしても、わたしはあなたを殺すための手を伸ばすことはない。わたしは万有の主アッラーを畏れる。

29.あなたがもし、わたしを殺すのならば、あなたはわたしの罪も、そして、あなた自身の罪も背負うこととなる。そうすれば、あなたは火獄の住人となってしまうであろう。不義を行うならば、この因果応報は避けられない。」

30.しかし、彼の心は、弟を殺すことを望ましいこととし、ついに彼を殺害し、失敗者の一人となった。

31.その時アッラーは、一羽の大カラスを遣わして地を掘らせ、その弟の死体を如何に覆うべきかを彼ら教えられた。それを見て彼は言った「ああ情けない、兄弟の死体を葬るのに、私はこのカラスに劣るのか。」と。こうして彼は後悔する者の一人ともなった。

32.この両者の心が、イスラエルの子孫に対して定めた掟《律法》の意味である。その掟とは、『人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人の命を救う者は、全人類を救うのと同じである。』アッラーの使徒たちが、明確にあかしした事はこれである。だが、なお多くの者たちが、地上において、非道な行いをしている。

33.アッラーとその使徒たちに対して戦いを挑む者、また地上をかく乱して歩く者の応報は、殺されるか、十字架につけられる(地獄に送られる)か、手足を互い違いに切断される(言動の不一致により裁かれる)か、または国土から追放されるほかにない。これは、彼らにとって現世の屈辱であり、来世に於いては更に激しい懲罰がある。

34.だが、アッラーにより裁かれる前に、自ら悔悟した者は別である。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。

35.あなた方信仰する者よ、アッラーを畏れ自分の義務を果たし、アッラーに近づこうと念願し、アッラーの道のために奮闘努力しなさい。そうすれば、あなた方は成功者となるであろう。

36.イブラーヒームの如き純粋な信仰を拒否する者は、仮に地上にある一切のものを積み上げ、更にこれと等しいものを積み上げて復活の日の懲罰を購おうとしても、決して受け入れられない。その者は痛ましい懲罰を受けることとなる。

37.彼らは、業火から逃れることを願うが、決してそこから出ることは出来ない。懲罰は永久に続く。

38.精神的であったとしても、また肉体であったとしても、あなたの手が盗みを働くならば、その両手を切り捨てなさい。そうすれば、アッラーはそれを御覧になられ、あなたの盗みの罪を御赦しになられよう。アッラーは偉力並びなく英明であられる。

39.しかし、このように行わなくとも、悪事を行った後、罪を悔いてその行いを改める者には、アッラーは哀れみをかけてくださる。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。

40.あなたは、《このようにすればアッラーは御赦しになられる》などと語ってはならない。天地の大権は全てアッラーに属し、あなたには何一つ決定権はないからである。罰されるか、赦されるかは、アッラーのお心次第であり、決定権は全てアッラーに属する。

41.使徒よ、互いに不信心を争う者のためにあなたの心を痛める必要はない。彼らは口では「わたしは信仰する。」と語る。しかし、彼らの語る信仰はイブラーヒームの如き純粋な信仰とは似ても似つかぬ形だけのものであり、心では何も信じてなどいない。例えば、ユダヤ人の中には、虚偽を聞きだすことばかりに熱心で、あなたのところに全く寄り付かない者もいるだろう。不信心を争う者たちも同じで、あなたがいくら正しいことを語っても、その言葉を自己都合により歪め、このように語るであろう。「もしこれが、あなた方に与えられたものと同じであると思うのならば受け入れなさい。だが、あなた方に与えられたものと同じでないのならば、用心しなさい。」と。彼らは如何にも善人の第三者のふりをするが、全ての大権をお持ちなのはアッラーであられる。アッラーはお望みの者を試みにあわせられる。あなたが、彼らのためのとりなしを行おうとしても、あなたにもアッラーに対して何一つ権威があるわけではない。《彼らが不信心を争うのは、アッラーが彼らの心を清めることをお望みになられない》と考えなさい。彼らはその不信心により、現世に於いて屈辱を受け、来世に於いてもひどい懲罰を受けるべきものたちである。

42.彼らは虚偽ばかりを聞き、禁じられたものを貪る。彼らがもしあなたのもとに来たのならば、彼らの間を裁くか、それとも相手にするな。もし、あなたが相手にしなくても、彼らは少しもあなたを害することなど出来ないであろう。もし、裁くのならば、彼らの間を公平に裁決しなさい。アッラーは公平に行う者を愛でられる。

43.よく考えてご覧、律法と言う定めがあるのに、どうして、あなた方のもとにきて裁判を望むのか。結局、彼らが求めているのは定めに違反する採決でしかない。律法は、アッラーが定められたものであり、その中にアッラーの公平な採決があるのだ。彼らはこういうものを持っていても、そのようなものからも背き去る。これらの者が語る信仰など信仰とは呼べないのだ。

44.アッラーは、導きとして光明のある律法を下された。イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者は預言者となり、ユダヤ人、聖職者、律法学者までも裁いた。この預言者たちは、アッラーの啓典の護持を託されていたからである。彼らは、その証人でもあった。だから、あなた方も人の権威や権力者を畏れてはならない。アッラーを畏れなさい。イブラーヒームのごとき信仰を持つ、これがアッラーを畏れると言うことである。人の権威や権力、世の富などと言う僅かな対価と引き換えに、イブラーヒームのごとき信仰から離れ、その信仰に依るアッラーの印を手放してはならない。世の法律も、アッラーが御認めになられる故に法律として機能する。アッラーが御認めになられたものを否定し、別の採決を求める者は不信心者に他ならない。

45.どうして、律法が、世の法律と違い、導きとして光明のあるものなのか。たとえば《命には命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、すべての傷害に対してその同等の傷害を》と定めてある。しかし、その報復を控えて許すならば、その許したことが自分の罪の償いとなるからである。アッラーは、このように許す者を赦される。裁判は、アッラーのこの考えに基づいて行われるべきであり、このようにしないものは不義を行う者である。

46.アッラーは、この考えの足跡を踏ませるかたちで、マルヤムの子イーサーをお遣わしになられた。これは、律法の中に何があるかを解き明かすものであり、その中にある導きと光明を福音として彼にお授けになられた。だから、福音は、律法の確証であり、主を畏れる者への導きであり訓戒である。

47.福音の信者は、アッラーがその中に示されたものによって裁きを受けることとなる。あなた方が、それによらず、別のものによって彼らに裁きを下すならば、主の掟に背く者となる。

48.この啓典(クルアーン)は、過去の啓典の中にある真理を示すもので、以前の啓典を確証し護る為のものである。だから、この啓典を知る者は、アッラーが彼らをどう裁かれるのかを知る事ができる。彼らが自らの私欲によって語っているのか、それとも正道を語っているのかを分別出来るのだ。そして、このクルアーンには、あなた方が自分自身の戒めとすべき聖なる戒律と、公正な道を定めてある。アッラーの御心に依れば、すべての者は、その教えの種類に依らず一つのウンマ(共同体)となりそうなものである。どうして、教えはこのように別れるのか。どうして、アッラーは、その各々が受けたものによって、異なった教えを起こすことを御認めになられているのか。それは、各々が受けたものによってアッラーが、彼らを試みられるためである。だから、あなた方は互いに善事を競いなさい。人は、やがてアッラーの御許に帰る事となる。その時、アッラーはあなた方が論争していたことについて告げられる。

49.すべての裁きは、アッラーが彼らに下されたものに依らなくてはならない。人は、私欲によりそれらの啓典を曲げ邪義を正義と語る。このようなものに惑わされてはならない。これは、自らの私欲が先にあり、その私欲に従って啓典を読むからこのようになるのだ。だから啓典を見る時、イブラーヒームのごとき純粋な信仰の目で見なければ、彼らの私欲に惑わされることとなる。このように、私欲が先にありその目で啓典を語る者たちに注意しなさい。アッラーが、彼らの犯した罪ゆえに彼らを裁かれる。彼らはその罪故に懲らしめに会う。口でアッラーを信仰すると語る者は多いが、イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者はほとんどいない。

50.多くの者がアッラーの裁決を望むと語る。しかし、彼らが求めているのは無明の裁決に他ならない。イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者にとって、アッラーの裁決は、無明に対する決審である。アッラーほど優れた裁判官は他にいない。

51.あなた方信仰する者よ、あなた方はユダヤ人やキリスト教徒の如く私欲によって啓典を見る仲間となってはならない。彼らは敵対しても、《私欲が先にありその目によって啓典を見る》と言うことに関しては友である。あなた方の中、誰であったとしても、私欲が先にありその目で啓典を見るならば、彼らと同類である。だからあなた方はイブラーヒームのごとき純粋な信仰を持ち、その目で啓典を見なさい。アッラーは決して不義の民を導かれない。

52.知りなさい。心に病を持つ者がこのようなことを行うのだ。彼らの心は《わたし災難に会いはしないかと恐れる。》《わたしは裁かれるのではないかと恐れる。》と言っている。この心がイブラーヒームのごとき純粋な信仰とかけ離れた心であり、これが心に病を持つと言うことなのだ。アッラーは彼等ではなく、イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者に勝利を与えられ、御許から聖断を与えられる。彼らは、心の中に秘密に抱くものにより、ひどく後悔することとなる。

53.彼らも、《自分はアッラーを信仰する》と語り、このように言うであろう「わたしたちも、あなた方と一緒であり、アッラーに力を込めて誓った者に他ならない。」と。しかし、彼らの行いは虚しく、必ず失敗者となるであろう。

54.信仰する者よ、もしあなた方の多くが口先だけとなり、イブラーヒームのごとき純粋な信仰と無縁の者となれば、アッラーは、民を愛でられ、主を敬愛して止まない他の民を連れてこられるであろう。彼らはイブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者に対しては謙虚であるが、不信心の者に対しては意志堅固で力強く、アッラーの道のために奮闘努力し、非難者の悪口を決して恐れない。これは、アッラーがお好みになられた者に与えられる恩恵である。アッラーは恩恵を与えられる方であり、全知であられる。

55.あなた方は、アッラーを友とし、その使徒を友とし、イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者を友としなさい(このようなものたちの仲間となりなさい)。彼らはその心故に礼拝の勤めを常に護り、定めの喜捨を自然となし、謙虚に額づく。

56.アッラーとその使徒、イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者を友として助ける者は、アッラーの一党であり、必ず勝利を得るものたちだからである。

57.イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者よ、あなた方の教えを嘲笑し、戯れ事とする者の仲間に入ってはならない。それは先に啓典を与えられた者の中にもいれば、信仰を拒否する者の中にもいる。彼らを恐れるのではなく、アッラーを畏れなさい。

58.あなたが彼らにイブラーヒームのごとき純粋な信仰を教え、その心で礼拝すべきことを教えたとしても、彼らはそれを嘲笑すべきこと、戯れごとに変えてしまう。彼らには、この教えは理解できないのだ。

59.彼らは啓典を持ちながら、その意味が理解できないのだ。彼らに対してこのように語れ、「あなた方がわたしたちを非難するのは、わたしたちが純粋なアッラーへの信仰を持ち、このクルアーンも、過去の啓典もすべて正しいと信じるからなのか。それとも、あなた方が私欲に走り、その私欲故に過去の啓典もこのクルアーンの意味も理解出来なくなったからなのか。あなた方も《アッラーの掟》と言う言葉を使うが、我々とあなた方、どちらがアッラーの掟を守る者なのか。結局、あなた方がアッラーの掟に背いた故に、コーランに書かれたままの不信仰者の姿となっているのに気付かないのか。

60.結局、あなた方こそはアッラーが見放された者、お怒りを被った者、サルとか豚としてあらわされる者、そして、邪神に仕える者とされる。あなた方は啓典を与えられたのに、それを守らなかった故に最悪の境地に定められ、正しい道から遠く迷い去った者たちに他ならない。」と。

61.彼らはあなた方の許に来た時、「わたしは信仰する。」と語った。だが彼らの語る信仰とはイブラーヒームのごとき純粋な信仰とはかけ離れたもの、形ばかりのものである。結局、彼らは不信心で入り、また不信心で出ていく者たちに他ならない。アッラーは彼らが隠している事を熟知されておられる。

62.このような者たちの多くが、罪悪と反逆を争い、禁じられた物を貪るのを見るであろう。彼らの行動は何と醜悪なことか。

63.聖職者や律法学者(法律家)たちも、彼らの罪深さを語る事もなく、非法を強いて咎めることもない。結局、彼らの私欲の言いなりとなる者、私欲を増長させる者たちでしかない。この醜悪な姿を見るがよい。

64.ユダヤ人たちは「アッラーの御手は縛られている」と語る。しかし、縛られたのは彼らの手の方であり、そう言ったことによってアッラーが彼らを見限られたのだ。「アッラーを信仰する」と語る者たちよ。あなた方がもしこのクルアーンに示されているイブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つならば、アッラーは御手を大きくひろげられて、御心のままに惜しみなく与えられることを知るであろう。しかし、多くの者はこのクルアーンにより、自分の不信心と反抗を増長させることとなる。彼らはユダヤ人の同胞であり、アッラーは彼らにも敵意と憎悪を授けられる。これは、復活の日まで続くこととなる。彼らが戦火を燃やす度に、アッラーはそれを消されるが、彼らは地上に害悪を広めることに熱心である。アッラーは、このような害悪を行う者を愛でられることはない。

65.啓典の民が、イブラーヒームのごとき純粋な信仰に入り主を畏れるのならば、アッラーは必ずその者のすべての罪障を抹消して至福の楽園に招いてくださる。

66.つまり、ユダヤ人が律法を遵守し、キリスト教徒が福音を遵守し、このクルアーンを知る者がこのクルアーンを遵守して、イブラーヒームのごとき純粋な信仰に入るのならば、彼らの上からも足許からも、必ず豊かにその糧を与えてくださるのだ。確かに、彼らの中にはこのように正義を行う一団もいる。だが、ほとんどの者たちの行動は邪悪である。

67.使徒よ、あなたに定められている事は、主があなたに下されたものを宣べ伝える事である。あなたは、この使命を果たすために生まれて来たのである。アッラーは、危害をなす人々からあなたを守護される。アッラーは不信心の民を導かれない。

68.この啓典を受ける者よ、あなた方は律法、福音、このクルアーンの啓示すべてを守り遵守しなさい。それ以外に、あなたが立つ拠所はない。あなた方の中の多くの者たちは、頑固な犯行を繰り返し、不信心を増長させるであろう。しかし、あなたは彼らのようになってはいけない。また、彼らゆえに心を悩ます必要もない。

69.イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つならば、ユダヤ人であろうとも、サービア教徒(仏教徒)であろうとも、キリスト教徒であろうとも、アッラーと終末の日を信じて、善い行いに励む者には、恐れもなく憂いもなくなる。

70.アッラーはかつて、イスラエルの子孫と約束を結び、使徒たちを彼らにお遣わしになられた。ところが、使徒が彼らの好まないものをもたらす度に、彼らはある者を嘘つきと呼び、ある者を殺害した。

71.彼らは、何の罰を受けることはないと考えていたのだ。しかし、彼らは盲目(魂が濁り)や難聴(悟りがない)状態となった。その後アッラーは彼らの悔悟を許された。それでも彼らの多くはまたも、自ら盲目(魂が濁り)や難聴(悟りがない)状態となっていった。アッラーは彼らが行うことを御存知であられる。

72.「アッラーこそは、マルヤムの子マスィーフである。」と言う者は、イブラーヒームのごとき純粋な信仰から離れ去った不信者である。そのマスィーフはこういっているではないか「イスラエルの子孫よ、わたしの主であり、あなた方の主であられるアッラーに仕えなさい。」おおよそ、アッラーの地位に他のなにものかを配する者には、アッラーは楽園に入る事を禁じられる。彼の住まいは業火である。不義を行う者に援助者はない。

73.「アッラーは三位の一つである。」と語る者も、イブラーヒームのごとき純粋な信仰から離れ去った者、不信者である。唯一の神の他に神はない。もし彼らがその言葉を止めなければ、不信者には痛ましい懲罰が下るであろう。

74.彼ら自身がマルヤムやイーサーのごとき純粋な信仰に帰り、アッラーの御赦しを求めなくてはならないのだ。彼らは自らの罪をマスィーフに押し付け、更にこれらの言葉により、罪を重ねている。アッラーは悔悟する者には、寛容にして慈悲深くあられる。

75.マルヤムの子マスィーフは、一人の使徒に過ぎない。彼以前にも使徒があり逝ったのである。彼の母は誠実な婦人であった。彼ら両人はアッラーを知る悟りを得ていた。アッラー御自身が彼らに悟りを与えられ、アッラーの印を明示されたのだ。このクルアーンは彼らが受けた悟りそのもの、アッラーの印そのものである。良く見てご覧、ここで不信仰な者と示すものの信仰と、イブラーヒームやイーサーのごとき純粋な信仰とが同じものなのかと。彼らは不信仰ゆえに迷い去った者である。

76.不信仰な者の信仰とは、《お救いくださるなら信じましょう》《御赦しくださるのなら信じましょう》というもの、結局、自らの救いや赦しをその対象に求めているのに過ぎない。このような信仰をアッラーは信仰とは御認めにならない。結局、彼らは、アッラーの他のものを信仰する者に過ぎない。マスィーフやアッラーの名を上げようとも、それは、あなたを害することもなく、益することもない。結局、かれらはこのようなものに仕えているのだ。アッラーは最初から人々がこのようになる事も御存じなのだ。

77.啓典の民よ、真理を無視して、あなた方が知る啓典の言葉に違反してはならない。あなた方は先の迷い去った者たちの私見に従ってはならない。彼らは多くの者を迷わせる者、正しい道から迷い去った者たちである。

78.イスラエルの子孫の中、不信心な者は、ダーウードやマルヤムの子イーサーの舌で呪われた。それは彼らが従わないで、法を越えたためである。

79.彼らはその行った悪事を互いに戒めることもなかった。彼らの行ったことのは醜悪そのものであろう。

80.見てご覧、彼らの多くの者の姿を。信仰者と呼ぶのに相応しいか、不信仰な者と呼ぶのに相応しいかと。彼らは信仰の道を選ぶことも出来たのだ。しかし、彼ら自らが不信仰と言う醜悪な道を選び、その道を進んでいるのだ。アッラーは、このような者たちを激しく罰せられる、このようなものたちは懲罰の中に永遠に住むこととなる。

81.彼らがもし、アッラーと聖預言者を信じ、また彼らに下されたものを信じたならば、かれらは今のように不信仰ではなく、信仰者と呼ぶのに相応しい者たちとなっていたであろう。しかし、彼らの内の多くの者は、主の掟に背く者である。

82.あなたは、イブラーヒームのごとき純粋な信仰を敵視する者たちがいることを知らなくてはならない。激しく敵視するのは、ユダヤ人であり、人が定めた権威や権力を信奉する多神教徒であろう。また。イブラーヒームのごとき純粋な信仰に一番、親愛の情を抱くのは「わたしたちはキリスト教徒です。」と言う者であることを知るであろう。これは、彼らの間にいる司祭や修道士たちが高慢ではないためである。

83.高慢ではない者たちは、このクルアーンを見て、また聞いて、この中にある真理を知る。そして、涙を目に満ち溢れさせこのように語るであろう。「主よ、わたしたちは信仰します。わたしたちを証人の中に書き留めてください。

84.わたしたちは、今、真の信仰とは何なのかを知りました。この真理を信じないことなど出来ないのです。わたしたちは敬謙な多くの民と一緒に、イーサーのごとき純粋な信仰にお導きくださいと懇願せざるをえません。

85.アッラーは、彼らの言葉に報いられ、川が下を流れる楽園を与えられ、彼らは永遠にそこに住まわせられる。これ善い行いであり、かれらはその報いを受ける。

86.しかし、イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持たないで、楽園に入れてもらえるのなら信じようと言う者、アッラーの印を偽りと語る者は、火獄の住人となる。

87.信仰する者よ、アッラーは形としての信仰を善いものとされることはない。それがどのような形であれ善いものは存在する。あなた方はアッラーが善いとされるものを禁じてはならない。また、法を越えてはならない。一切の定めは、アッラーが是とされるゆえに存在するからである。アッラーは法を越える者を御愛でにならない。

88.アッラーがあなた方に示された良いものを食べなさい(自らの悟りとしなさい)。これはどのような法によっても合法である。あなた方は、あなた方が信じているアッラーを畏れなさい。

89.アッラーが、あなた方の軽はずみな言葉の誓いに対し、あなた方を非難されるわけではない。だが、あなた方が誓い約束したことに関し、あなた方自身がその責任を果たすべきである。その贖罪には、あなた方の家族を養う通常の食事で、10人の貧者を養い、彼らに衣服を支給し、または、奴隷一人を解放すればよい。このようなことが出来なければ、三日程度、極貧の者のようにすべての贅沢を退け断食すべきである。これが、あなたが誓いを守らなかった時の代償である。あなた方自身が誓ったことは、あなた方自身が果たすべきである。アッラーは、御自分の名により誓われたことは必ず果たされる。だから、あなた方も自分の誓いを自ら果たすべきなのだ。これがアッラーの印を知ると言うことであり、これを身を以て教えてくださるのがアッラーであられる。あなた方は感謝すべきである。

90.イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者よ、酒、賭博、偶像、占いなどに心を奪われてはならない。このようなものは、忌み嫌われる悪魔の業であり、あなた方はこのようなもの故に、いつの間にか純粋な信仰から離れ去るかも知れないからである。

91.あなた方が酒や賭博に心を奪われると、敵意と憎悪が起きる。その敵意や憎悪の感情が、イブラーヒームのごとき純粋な信仰からあなたを離れさせるからである。だから、あなた方は酒や賭博を慎まなければならない。

92.すべての責任は、あなた自身にある。イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持ちアッラーに服従・帰依することも、使徒があなた方に残した啓典を守る事も。その相手がどのような使徒であれ、彼ゆえにあなたのすべての罪業が消え去り、彼故に赦されることなど有り得ないからである。使徒の責務は明白に啓示を宣べ伝える事だけでしかない。

93.イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持ち善行に勤める者には、その者が如何なることを悟ろうとも、語ろうとも、またどのようなことを行おうとも、その一切は罪に問われない。彼らが主を畏れると言うことは、その上に更に純粋な信仰を持つと言うことである。彼らが善行に励むと言うことは、この上に更に善行に励むと言うことである。だから、アッラーはこのような者にも、主を畏れよ、善行に励めと語られる。

94.自分はイブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つと語る者よ、アッラーはあなた方にあなた方が手で狩る事ができる獲物(あなた方が達成可能な試練)、または槍を使えば狩る事ができる獲物(他のものの助けを借りれば達成可能な試練)などによって、あなた方を試みられる。これは、その者が真にアッラーを畏れる者かどうかを、その者自身に明らかにする為である。口先だけの信者は逃げ去り、痛ましい懲罰を受けることとなる。

95.イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者よ、あなた方が巡礼と呼ばれる試練を受けている間は、不信仰者の信仰を否定したり(獣を殺す)、救いを否定したり(鳥を殺す)してはならない。もし、あなた方の中、知りながらそれらの行為を行ったのならば、その殺したもの(否定したもの)と同じだけの家畜(あなた自身)を、カアバ(イブラーヒームの信仰の境地)に運んで届ける《否定した自らの信仰を否定し、その罪をアッラーに請うこと》か、その贖罪のために貧者に食を供するか、または、極貧の者のようにすべての贅沢を退け断食しなくてはならない《あなた自身が誓いを破った者として、その贖罪をする》。これらは、あなた方自身が《その否定された結果を味わう》ことが重要だと言う意味である。アッラーは、過ぎ去ったことは御赦しになられる。しかし、あなたがもし繰り返すならば、アッラーは応報を重くされる。アッラーは偉力並びなき応報の主であられる。

96.海(人の思考)で漁をする《一般的に言う教育》、また獲物を食べる《自らの生活の糧とすること》は、あなた方にも旅人にも許されている。しかし、あなた方が試練を受けている間は、地上での狩猟《他の教えの否定》は禁じられる。アッラーを畏れなさい。あなた方は彼の御許に集められる。

97.アッラーは、人間のためにイブラーヒームのごとき純粋な信仰の家(カアバ)を定められた。イブラーヒームのごとき純粋な信仰は、盲目であり迷いにある者(夜の人)を導くための月となり、人間が誰でも持つ捧げもの(自分自身)を捧げる行為となり、その捧げものによって得られる首飾り(アッラーの印)となる。これらすべてを定められたのはアッラーであられる。アッラーは天にあり、地にあるすべてを御存じで、それを人々にお教え二なろうと、これらのものを定められたのだ。

98.この一事に反する者にアッラーは厳罰を下される。また、この一事を守る者には寛容にして慈悲深くすべてを許される。

99.使徒に課せられている責務は、ただ、これを宣べ伝える事だけである。あなた方は使徒と称する者が、多くの定めを指し示すのを見るかも知れない。しかし、その使徒も、それを、さも正しいことのように語る者たちも、この一言を否定する者に他ならない。アッラーは初めから、あなた方が何を現し、何を隠すのかを御存じであられる。

100.よく聞きなさい。多くの者たちはこの《世にはびこっている悪》に魅了される。しかし、彼らがいくらアッラーの名を唱え、自らをイスラームと名乗ろうとも、悪と善いことは同じではない。思慮ある者よ、アッラーを畏れなさい。そうすれば、あなたは成功者となるであろう。

101.信仰する者よ、いろいろと尋ねることは、あなた自身にとって良いこととは言えない。確かに、アッラーはそれらすべてに明確な回答を下されることも可能である。しかし、それが明示されてもあなた自身がそれに付いて行けると言う保証はどこにもない。あなたは、それを知る事により、かえって迷いの淵に沈むこともある。ただし、このクルアーンが明示されている時、このクルアーンについて問うならば、アッラーはそれに明確に答えられる。これはアッラーがあなた方に許されているあなた方の権利である。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。

102.あなた方以前の民もいろいろと尋ねた。そして、そのこと故に不信心者となった。

103.アッラーを人が触れてはならない神、依り頼めば人の罪が許される神、人を育む神、打たれることにより霊の罪を赦される神などと語る者たちがいよう。しかし、これらはアッラーが定められたものではない。これらは、不信心者がアッラーに対して虚構したものである。彼らは、クルアーンをほとんど理解していない。

104.彼らに向かって、「アッラーが下されたもの、使徒たちの許に来なさい。」と語れば、彼らは「わたしたちは先祖から伝え聞いたもので十分です」と答える。しかし、彼らの先祖に何の知識もなく、正しく導かれたという証拠もないではないか。

105.イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者よ、あなたが理解できるか、正しく導かれるかということは、すべてあなた自身にかかっている。あなた自身が正しい道を踏むならば、迷った者がいくら多くいようとも、あなたを阻むことなど出来ない。あなたは大手を振ってアッラーの許に帰る。その時、あなたはこれが信仰の大道であり、あなたは信仰の大通りの真ん中を大手を振って歩いてきたことを知るであろう。

106.イブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つ者よ、あなた方の内の一人がアッラーの御許に帰ろうとする時には、その信仰の証言を取りなさい。二人の証人をあなた方の中(ムスリム)から立てて、この者がどのように信仰の大通りを歩いてきたのかと言う証しをたてなさい。あなた方が《それは、死の苦悩であり、信仰の大通りを歩いたと言う証言ではない》と思うのならば、あなた方以外(異教徒)から二人を、あなた方が礼拝した後引き留めて、彼の言葉を聞かせなさい。もし彼ら(異教徒)が疑うならば、アッラーにかけて誓いなさい。「わたしたちは、わたしたちが正しいと言う証言を得ようとしているのではありません。たとえ近親のためであっても、決してその証言を変えない。また、アッラーの証拠を一切隠さない。この証言のためにあなた方をお呼びしているのです。自分たちに有利な証拠だけを示すようなことがあれば、わたしたちは犯罪者です。」

107.もし、彼ら二人(ムスリム)が偽証の罪に当たると判明したならば、彼らによって不利益を被ったであろう者たち(異教徒)の中から、また、それに近い縁を持つ者の中から適切な二人の証人を立てて、(ムスリムが)アッラーにかけて誓いなさい。「わたしたちの証言は、先の二人の証言よりも真実であります。わたしたちは、それがどのように悪い証言であったとしても、それを変えることはありません。もし、そのようなことをすれば、わたしたちは不義者であります。」

108.このようにすることが最も正当である。このようにしていけば、人々は、あなた方を事実に基づいて証言する者とし、彼ら自身が語る立証が偽証に基づくものと、あなた方に反論されることを恐れるようになる。《正義を尽くす》こと、これがアッラーの課せられた義務であり、これがアッラーの御言葉である。アッラーは、掟に背く者をお導きになられない。

109.あなた方は、使徒の言葉をアッラーの御言葉と同等、または、アッラーの御言葉以上のものとしてはならない。アッラーがあなた方の証言に基づき使徒たちを招集され、「あなた方はどのように返答したのか」とお尋ねになられる時、使徒はこのように答える以外にないからである。「わたしたちには知識はありません。あなただけがすべてを御存じで、すべての奥義を熟知されておられる。」

110.たとえば、マルヤムの子イーサーは、アッラーの恩恵を受け、聖霊によって強められ、ゆりかごの中でも、成人してからも人々にアッラーの教えを語った。アッラーが啓典と英知と律法と福音を彼に教えられたのだ。また、彼はアッラーの御許しのもと、泥で鳥を形作り、これに息を吹き入れて生きる鳥とした。また、彼は生まれつきの盲人やライ患者を癒し、死者を甦らせた。彼は、これらの明らかなアッラーの明証を持って、イスラエルの子孫の許に赴いた。だが、彼らの大半の者はどうしたのか。不信心にも「これは明らかな魔術に過ぎない。」と語った。

111.弟子たちは、同じこれらの明証を『アッラーを信じ、アッラーの使徒を信じなさい』と聞いたのだ。だから彼らは「わたしたちは信じます。わたしたちはイブラーヒームのごとき純粋な信仰を持つもの、真に服従・帰依する者となります。イーサーよ、あなたは我々の証人となってください」と答えた。

112.弟子たちは何を求めたのか。「マルヤムの子イーサーよ、あなたの主は、わたしたちのために食べ物を並べた食卓(アッラーの悟りに満ち溢れた御言葉)を、天からお下しになられるだろうか。」イーサーはこう答えた「あなた方が真の信者、アッラーを畏れる者であるならば。」

113.彼らは言った。「わたしたちはその食卓で食べて(アッラーの悟りに満ち溢れたお言葉を直接聞き)心を安らげたいのです。また、あなたが我々に語られたことが真実であることを確認し、その証人となりたいのです。」

114.マルヤムの子イーサーは祈って言った「わたしたちの主よ。わたしたちのために神の悟りに満ちた御言葉を天からお下しください。わたしたちは、あなたのお言葉により創られ、定められたものであり、あなたの御言葉を聞くことこそがわたしたちの最後の願いでもあります。ですから、我々に御言葉をお賜りください。我々は、これをあなたの印とします。わたしたちに天の食をお与えください。まことに、あなたは我々の養い親であられます。」

115.アッラーは、仰せになられた。「わたしは、あなた方の願いを聞き届けよう。あなた方はイブラーヒームのごとき純粋な信仰を持ち続けなくてはならない。もし、あなた方の内で不信心になる者がいたならば、わたしは誰にも加えたことのない懲罰で、その者を罰するであろう。」と。

116.イーサーも、イーサーの弟子たちもこのようにイブラーヒームのごとき純粋な信仰によりアッラーを信じた。ところが、いつの間にか、イーサーやイーサーの母を二柱の神とする者たちが現れた。アッラーはマルヤムの子イーサーにこのようにお尋ねになられる「マルヤムの子イーサーよ、あなたは『アッラーの他に、わたしと私の母を二柱の神とせよ。』と人々に告げたか。」イーサーは「あなたを讃えます。それはわたしが語る事ができる権能を越えています。もし、わたしが私の権能を越えることを語らなくとも、わたしが心にでも思ったのならば、あなたはそれだけでも御存じです。あなたはわたしの心の中を御存じですが、わたしはあなたの御心の中は知りません。あなたは全ての奥義を熟知されておいでです。

117.わたしはあなたに命じられたこと以外は、決して彼らに告げません。そして、命じられたこととは《わたしの主であり、あなた方の主であるアッラーに仕えなさい》この一つだけです。確かに、わたしが彼らの間にいた間は、わたしは彼らの証人でした。あなたが私をお呼びになった後は、あなたが彼らの監視者であり、あなたがすべての事の立証者であられます。

118.彼らがいくら私の名を唱えようとも、彼らはあなたのしもべでしかありません。彼らを罰するのも、御赦しになられるのも、あなたの御心次第です。あなたこそは、偉力並びなく英明であられます。

119.人々よ、知りなさい。これは一つの例である。マルヤムの子イーサーも語らず、またその弟子も語らなかったことが、如何にも真実のように一人歩きする。これゆえ、正直者が正直故に損をする世となる。アッラーは、これを改められる。これは彼ら正直者が、正直故に得をする日である。彼らには川が下を流れるがあり、永遠にその中に住む。アッラーは彼らをお喜びになられ、彼らもアッラー故に歓びに満ち溢れる。これが大願成就である。

120.天と地、その間の一切の物事は、アッラーの大権に属する。彼は全ての事に全能であられる。





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