飯豊山神社

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飯豊山神社
所在地 福島県喜多方市大字一ノ木
位置 北緯37度51分18秒 東経139度42分18秒 / 北緯37.85500度 東経139.70500度 / 37.85500; 139.70500
主祭神 五社権現
創建 伝 白雉3年(605年
例祭 9月1日
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飯豊山神社(いいでさんじんじゃ)は、福島県喜多方市(旧山都町)の飯豊山地主峰である飯豊山南峰(標高2,102m)にある神社である。麓の一ノ木地区在家に麓宮があり、飯豊山頂の奥宮とともに、両宮が一体のものとされる。

歴史

飯豊山地は、「山容飯を豊かに盛るが如き」と表現され、これが飯豊の語源になっている。飯豊山神社は、605年(白雉3年)、中国から渡来した知道と修験道の開祖役小角が飯豊山頂に登り、この山を飯豊と名付け、さらに飯豊山地を五人の王子に見立てて、五王子を飯豊山地の祭神として祭ったのが起源とされる。高僧である徳一空海行基に起源を求める説もあるが、本項では知道、役小角を起源とし、創建年を605年として記述する。

飯豊山信仰は土俗的な信仰であり、飯豊山地それ自体を御神体として崇拝する。すなわち、飯豊山地は、越後会津出羽の3国の境に聳え立ち、3国を見下ろす。飯豊山から生まれた水は、阿賀野川荒川最上川へとなり、山野に恵みをもたらす。また、飯豊山地の周辺では、死者は天空へと上り、先祖は高所である飯豊山から見守っていると信じられており、それらが相まって、飯豊山信仰へとつながった。飯豊山への参詣は、近隣の住民にとって、大人になるための通過儀礼であり、13歳になると飯豊山に登るのがしきたりになっていた。

1595年(文禄4年)、会津若松城主となった蒲生氏郷は、蓮華寺の僧宥明に命じて登山道を整備させ、これ以降、麓宮がある一ノ木口が表参道とされ、蒲生氏に代わった松平氏の時代にも、会津守護として手厚く保護された。山の反対側である米沢藩においても手厚く保護され、上杉氏の治世下で大日杉(現飯豊町岩倉)に岩倉神社が建立され、代々の米沢藩主の奉納木札が残されている。

一ノ木と大日杉は、江戸期においては会津と米沢を結ぶ街道の藩境に位置し、飯豊山参拝の拠点とともに宿場としても栄えた。

明治時代になると、廃藩置県が実施され、これまで会津の一部であった東蒲原郡福島県から切り離され、奥宮は新潟県東蒲原郡実川村(現阿賀町実川) に編入されることとなったが、これに麓宮がある耶麻郡一ノ木村が反発、「飯豊山神社は、奥宮と麓宮で一宮である」として一ノ木村の一部であるとした。結局、内務省裁定により飯豊山までの登山道は一ノ木村の土地となった。現在の、いびつな形の福島、新潟、山形県境はこれに由来する。

社殿

麓宮は、拝殿のみで本殿はない。本殿は飯豊山地そのものであるとされたためである。代わりに「銅造五大虚空蔵菩薩坐像」が安置されており、福島県の重要文化財に指定されている。虚空蔵菩薩は、神仏習合において、五社権現の本地仏(神道の神が仏教の仏として顕現したもの)とされたからである。

飯豊山中には、五王子にちなみ、かつては五箇所の宮が設置された。現在も御前坂から山頂に至る地名に一王子から五王子までの名前が残されている。王子は、参拝者にとって、祈願を行う霊場であり、遭難者を保護したり、物資を補給する場所でもあった(一王子は、今でも飯豊山頂付近にある貴重な水場であり、キャンプ場でもある)。ちなみに、飯豊山神社がある場所は四王子で、飯豊山頂が五王子である。山小屋である本山小屋に隣接し、社殿は石組みに囲まれており、夏は神主さんが詰めている。鳥居が設置されている。

補足

  • 飯豊山は、近年まで女人禁制の山であった。江戸時代に禁を破って飯豊山中に入った「小松のマエ」という女が、神の怒りに触れて石に変えられたという。飯豊山神社へと向かう登山道の横にある「姥権現」は、マエを祀ったものと言われており、登山者にとって大きな目印であり、参詣の場となっている。
  • 飯豊山神社に続く最も危険な岩場を御秘所(おひそ)と言う。飯豊信仰においても最大の難所とされ、ここを越えることで一人前の男として認められる場所だった。また、御秘所の、どのルートを越えたかによっても御利益が違ったという。
  • 喜多方市一ノ木から飯豊山地を越えて飯豊町岩倉に抜ける街道は、現在、スーパー林道である「大規模林道 飯豊・檜枝岐線(山都区間)」として道路建設工事が行われている。

関連項目

周辺