芳川顕正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Complex01 (会話 | 投稿記録) による 2009年7月2日 (木) 13:23個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ナビゲーションに移動 検索に移動

芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日天保12年12月10日) - 1920年大正9年)1月10日)は、日本の官僚政治家

人物

阿波国麻植郡山川町(後の徳島県吉野川市)出身。華族であり、子爵、のち伯爵である。

来歴

徳島藩士である。明治維新政府に入り、1872年大蔵省紙幣頭、1882年、東京府知事に就任する。

山縣有朋の側近として知られ、1890年第1次山縣内閣文部大臣に就任。在任中に教育勅語の発布に尽力した。

1891年第1次松方内閣でも文部相に留任した。退任後宮中顧問官に就任。

1893年第2次伊藤内閣で司法大臣に就任。続く第2次松方内閣でも留任した。また、この間、1894年に文部大臣を兼任。1896年には内務大臣も兼務した。

1898年第1次大隈内閣で内務大臣に再び就任。次いで第2次山縣内閣で逓信大臣に就任。子爵に叙せられる。

1901年、第1次桂内閣で再び逓信大臣に就任。1904年第1次桂内閣で三度内務大臣に就任。1907年、日本花柳病予防協会(現在の性の健康医学財団)設立に伴い初代会長に就任。1912年、枢密院副議長に就任。1917年、身内の不祥事により枢密院副議長を辞任。

1915年南洋協会(異文化コミュニケーション財団の前身)設立に参画し初代会頭に就任。


先代
松田道之
東京府知事
第8代: 1882 - 1885
次代
渡辺洪基
先代
榎本武揚
文部大臣
第6・7代:1890 - 1891
次代
大木喬任
先代
伊藤博文
司法大臣
第6代:1893
次代
清浦奎吾
先代
井上毅
文部大臣
第11代:1894
次代
西園寺公望
先代
野村靖
内務大臣
第12代:1896
次代
板垣退助
先代
樺山資紀
内務大臣
第16代:1898
次代
板垣退助
先代
林有造
逓信大臣
第9代:1898
次代
星亨
先代
原敬
逓信大臣
第12代:1901 - 1903
次代
曾禰荒助
先代
桂太郎
内務大臣
第23代:1904 - 1905
次代
清浦奎吾
先代
佐佐木高行
皇典講究所所長
第3代:1910 - 1910
次代
鍋島直大
先代
佐佐木高行
國學院大學学長
第4代:1910 - 1911
次代
鍋島直大
先代
東久世通禧
枢密院副議長
第4代:1912 - 1917
次代
清浦奎吾